ケータイを持ったサル
- 作者: 正高信男
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2003/09/01
- メディア: 新書
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「ひきこもり」など周囲とのコミュニケーションがうまくとれない若者と、「ケータイ」でいつも他人とつながりたがる若者。両者は正反対に見えるが、じつは成熟した大人になることを拒否する点で共通している。これは「子ども中心主義」の家庭で育った結果といえる。現代日本人は「人間らしさ」を捨て、サルに退化してしまったのか?気鋭のサル学者による、目からウロコの家族論・コミュニケーション論。
とのことなのだけれども、一読した感じではただの愚痴としか捉えられないのは気のせいか。序説で「自分は携帯電話を持っていない」と言っている時点で、説得力も無くなってしまっているし、真面目に読む気も失せてしまった。まあ、妄想を元に展開される理論は、ある意味面白いけれども。
ただ一点、なるほどなぁ、と思った点がある。それは携帯電話のメールでのコミュニケーションとサル達のコミュニケーションの類似という点。サル達は言語による明確なコミュニケーションは出来ないけれども、他者の存在を確認するために、鳴き声を出すという。自分が鳴き声を出し、少し離れた場所にいる相手が鳴き声を返すことで、独りではないという安心感を得るらしい。他者の存在を確認できさえすれば良いのだから、鳴き声自体に言葉としての意味を求める必要は無い。
携帯電話のメールやネットでのコミュニケーションにおいて、大して意味の無いメッセージのやり取りが頻繁に行われるのは、他者の存在を常に確認することで、安心感を得るためなのではないか。サルの鳴き声と同様に、単に他者の存在を確認する為の手段な訳だから、そのメッセージ自体には内容など必要なく、単なるサインと同じ、ということ。
この部分に関しては妙に納得してしまった。
ただ、もちろん内容のあるコミュニケーションもある訳だから、携帯電話やネットを使う全ての人がこうである、ともとれる様な論法は少し強引な感じ。
それに、時には敢えてこういうコミュニケーションをとらなければならない場合もある。そして入り口はそういうコミュニケーションでも、自覚がある者同士ならば自ずと関わり方も変ってくるはず。まあ、何も考えていないような人とは、結局どちらからともなく疎遠になるだろうけれども。
考えようによっては、人間は元々サルから進化した訳だから、このまま筆者の言うように人間が先祖返り・サル化していき、原始的なコミュニケーションしか出来なくなった方が、案外幸せかもしれないな。
などという思いが、少しにしろ頭をよぎった自分は、人間失格。